差別について考える
最近はアメリカでの人種差別問題から、日本でも東京、大阪で1000人超のデモ行進が行なわれたことがニュースになっています。
アメリカでの人種差別は昔の奴隷文化から続くとのことで、文化になって長年考えに染みついたものを変えるのには時間がかかるのだな、と感じています。
もちろん私も、人種差別には反対です。
私はこの問題とは別に、一年程前から「多様性を認め合う社会の実現」について考えていました。
日本国内において自殺、いじめ、少年犯罪、虐待・・・と子ども達の悲しいニュースが続き、なくしていくにはどうすればいいのか?と考えをめぐらせていました。
これまでもこういう問題をなくしたい、とずっと考えていましたが、どこか他人事だったところから自分事として考えるようになりました。
これまでは自分の身近な人、大切な人がこういう問題から守られればいい、と考えていましたが、根本的になくしていかないと自分にも、大切な人にも影響がある問題だと捉えるようになった、ということです。
いじめや犯罪、虐待、差別・・・全て根本は愛の問題です。
愛に傷があるから他の弱者を攻撃することで承認欲求を満たそうとしていることが多いです。
誰しも傷はあると思います。
何の問題もなく大人になったら痛みのわからない人になってしまうので、傷を負うことも時には必要だと思います。
私も様々な経験の中で傷を負っていました。
そして、「人間はみんな本音と建前で生きている。
だから本当の善人なんていない。
他人は皆人を蹴落として一番になろうとしている。」
とひねくれた考えをしていました。
そんな中で教会の人と出会うようになりました。
教会の人たちはよくしてくれましたが、心の内では偽善だろうと思っていました。
ある時、教会の人とバレーボールをする機会がありましたが、ミスをたくさんしてしまい、帰り道落ち込みながら歩いていました。
その時、ある先輩が「車に乗りなさい」と私に言いました。
私は始めは断りましたが「いいから乗って」と続けて言うので、仕方なく乗ることにしました。
数人が車に一緒に乗り、駅まで行くのかと思いきや、別の方向へ。
しばらくすると、近くに住んでいる教会の友人の家に着きました。
驚く私に「入りなさい」と促され、中に入ると私の誕生日祝いが準備されていました。
この時に、「何かができるから大事にする愛」ではない無条件の愛を感じて、感激したことが思い出深いです。
やはり愛の問題は愛でしか解けないのだ、とこの時強く感じました。
そしてこのことが私にとって、真実に相手のことを考えられる人に変わるきっかけを与えてくれました。
全ての問題が愛で解けるよう、私ももっと愛を示す人になりたいと思っています。
そして、子ども達には「みんな違ってみんないい」を体で教えてあげられるエリオット先生のようになりたいと感じています。