それぞれの成長の時がある
町を歩くと紫陽花をたくさん見かけるようになり、季節の移り変わりを感じます。
さて、保育の話に移りますが、2、3歳児の保育をしていると子ども達はいろんな場面でこんなことをよく言います。
「見て見て、こーんなに脚が長くなったんだよ!」
「もうお兄(姉)ちゃんになったからねー」
まだ短くてかわいい脚、オムツでモコモコしたかわいい腰回りを見ながら
「まだまだ小さいのに」
と思う反面、
「以前より成長した自分を見て喜んでいるのだなぁ」
と感じさせられます。
少し前に、あるスポーツのコーチが春に咲き始めた花を見ながら
「日がよく当たる所の花は咲き始めているけど、日陰の花はまだ咲いていない。
でも必ずみんな花が咲く時がある。
だから焦らないでそれぞれの位置で今できることを行なうことが大事だ。」
と話されていたことを聞いて、とても印象に残りました。
子どもを育てることは植物の新芽に水や肥料を与えて育てることと通じるなぁ、とよく感じます。
歩くこと、話すこと、好きなことを見つけて集中して取り組むこと、、、
一人一人その芽が伸びるスピードと時が違うということ、そしてその芽の成長を自分の考えで止めてしまわないこと、これをいつも忘れないことが大事だと感じています。
子どもだけではなく、大人でも新入社員であればその会社、その分野においては新芽と同じだと思います。
「世界に一つだけの花」という歌がありますが、私が好きな歌の一つです。
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
種、つまりその人の持っている遺伝子や才能、可能性は外からは見えません。
だからどんな種なのかは花が咲いてみて、実を結んでみて初めてわかります。
たんぽぽのような小さくても芯の強い花もあれば、巨木に育つものもあります。
それぞれに違った個性があり、役割があり、輝く位置と時があると感じます。
子ども達の成長を見ながら、どんな相手に対しても目に見える「できる」「できない」にとらわれず、「昨日よりも成長した」部分、これからの可能性を見ることのできる人になりたいと感じています。
「みんな違ってみんないい」
この考え方が当たり前の社会がもっと日本中、世界中に広がっていくことを願っています。
みんなそれぞれの個性で輝こう~!
愛のある社会の実現は「聴く」ことから
昨日から6月になり、通勤、通学が始まった方も多いと思います。
それに伴い、対面で仕事をしたり授業を受けたり、人との直接の接触が増えますよね。
今日はコミュニケーションについて書きたいと思います。
まずコミュニケーションは会話のキャッチボールなので、相手の話をきちんと受け止めて返すことが大事です。
そのためには「きく」力が必要になります。
前回も書いた部分もありますが、三段階の「きく」について書いていきます。
・聞く:音が耳に入ってくる、聞こえること。
・聴く:相手の感じていること、伝えたいことをを理解しようと耳を傾けること。
・訊く:自分が知りたいこと、質問したいことを尋ねること。
大事なことは「聴く」ができた上で「訊く」をしないとただの追求、質問攻めになってしまうということです。
私は元々コミュニケーションに対して苦手意識を持っていましたが、これも保育の中で鍛えられ、磨かれたと感じて感謝しています。
長年多くの子ども達と関わってきましたが、子どもは大人の感情や波長にとても敏感だと感じます。
子どもの態度がまるで自分の心を鏡に映したようだと感じ、はっとさせられることも本当に多いです。
「聴く」ことにおいては、相手に対して「聴いてますよ」というサインを出すことでその波長が伝わります。
その波長を相手が受け取ることで信頼関係が生まれ、キャッチボールがスムーズになると感じます。
この「聴いてますよ」というサインは、表情、姿勢、視線、相づち、言葉などを指します。
言葉や相づちについては、「それは悔しかったね」「頑張ったね」といった「気持ち言葉」や「ねぎらいの言葉」を使うことで、全ての人間関係において信頼関係が深まるきっかけになると感じています。
それから、保育において子どもが失敗したり良くないことをした時(例えば何かを壊したり、誰かを叩いたり)、私は昔はよく
「どうして壊したの!」
「なんで叩いたの!」
と言って子どもを責めていました。
しかしこれは「聴こうとする姿勢」のない訊き方でした。
子どもは特に「自分を理解しようとしている人か」という波長に敏感なので、「聴いてくれる」と思わなければ話さなかったり嘘をついたりします。
子どもが何かをした時、何かされた時、または喜んでいる時にも使える万能の言葉、「あなたの話を聴きますよ」というサインを出すことができる言葉が「どうしたの?」だと私は感じています。
「聴いてもらう」ことは心のメンテナンスだとも言われています。
急に会社生活が始まり、成果が求められる環境の中でもお互いが「大変でしたね」「頑張りましたね」と言った一言をかけ合うことでメンテナンスし合い、温かい社会が広がっていくことを願っています。
まずは受け止めることから
ぴよこです🐣
ブログを始めてから、「感じたことや学んだことを自分の言葉で言語化する」大切さを感じています。
「自分の言葉にする」時に「自分のものにする」ことができる、と最近感じています。
こんなことを言っている私ですが、実は自分の感情を言語化することが大の苦手でした。
自分と向き合うこと自体が苦手で、ずっと避けて生きてきました。
しかし、保育の仕事の中で「自分の感情を言語化すること」が培われたし、苦手意識も克服できるようになりました。
私は特に1,2歳児の保育を担当することが多かったのですが、この時期は「自分でやりたい!」という自我が強くなり、「自分のもの」という所有意識が強くなる時期です。
思いがたくさんあるのに体の発達が未熟なので、思うようにできず癇癪を起こしたり、言葉で思いをうまく伝えられず先に手や口が出てしまう、ということが頻繁に起こる時期です。
この時期の適切な関わりとして、「子どもの気持ちを受け止めて代弁してあげる」ことで、子どもは「気持ちを表現する言葉」を学び、自分のものにしていきます。
しかし、私はこの「子どもの気持ちを理解して代弁する」のが、とっても苦手でした。
とは言っても避けて通れない状況が日々続くので、やむなく訓練するようになりました。
訓練の方法として、「代弁する」のが上手な先生の真似をすることと、「自分の気持ちを言葉にする」ことを続けて行ないました。
その中で自分の感情の動きを素直に受け止められるようになったし、相手の気持ちも理解して少しずつ寄り添えるようになりました。
「聞く」ことは、ただ耳に音が入ってくることですが、「聴く」ことは「心を込めて聞く」ことであり、「相手の感じていることを理解しようと耳を傾けること」だと言われています。
しかし現代社会は発達し、スマホ一つで瞬時に世界中と繋がり、世界中から情報を入手できる超スピーディーな時代になり、「聴く」余裕がなく「結論」「結果」をすぐに求める社会になりました。
現代の日本にはうつ病を始めとした精神疾患や自殺者がとても多いことが問題視されていますが、これも「聴いてもらえる環境」がなく、自分の感情を表出せずに溜め込んでしまう所以ではないかと考えています。
この現代社会の中で「聴いてもらう環境」を作るのは難しいことも多いと思いますが、「自分」はいつだって一番近くにいて気持ちに寄り添い、話を聞いてあげられる存在です。
時々は自分の感情を素直に自分自身に伝えてみたり、文章にしたりすることで、自分の気持ちが整理されることもあると思います。
自分が自分を受け容れる中で、お互いの思いをを受け止め合える余裕が生まれ、うつ病などの精神疾患が日本から、そして世界中から減っていくことを日々願っています。
「穴」によって見えるもの
本日ついに例のアベノマスクを受け取ったぴよこです🐣
緊急事態宣言が解除され、心なしか人々の緊迫感が和らいだような空気を地元を歩きながら感じていました。
今回のコロナ禍による影響は様々ありましたが、世界的に最も大きな打撃は経済的損失だと思います。
そんな中、緊急事態宣言の解除と共に少しずつ観光地や商業施設など都市が動き始めている、というニュースを見ながらふと学生時代に聞いた言葉を思い出したので書きたいと思います。
私の通っていた大学にはどの学科にも必ず週に一度、大学内の大きなホールに集まって学長自らが大学の歴史や敷地内にある植物等について話をする授業がありました。
学長の話は正直つまらなく、一限の授業だったこともあり私も周りの人も半分寝ながら聞いているような授業でした。
そんな学長がある時、体調を崩し入院することになりました。
私の通っていた大学はミッション系ではなかったのですが、どういうつてか急遽その授業の代理講師としてシスター(修道女)の方が来られて、授業が始まりました。
シスターの授業の期間は記憶が曖昧ですが、数ヶ月続きました。
結局学長の体調は良くならず、シスターの後は学長の娘さんが授業をするようになりました。
その数ヶ月のシスターの授業は、シスター自身の経験談や出会った人の話などでとてもわかりやすく、その時は私もしっかり起きて授業に参加していました。
そのシスターの授業の中で「人生に穴が開いてこそ見えるものがある」という話がありました。
ある女性に結婚を前提にお付き合いしていた男性がいたそうですが、その女性に婦人科系の病気が見つかり、生涯妊娠が難しいと医師に告げられたそうです。
そのことを交際相手に伝えたところ「子どもが産めなくても、あなたの存在自体が大事だ」と相手が答えてくれたそうです。
これによってこの女性は病気という「穴」によって「真実な愛」を見つけた、このように人生に何か「穴」が開いたとしても、「穴」を通してしか見えないものがある、という授業の内容でした。
当時私自身いろいろ悩んでいて「穴」が多かったから印象に残ったのかも知れませんが、これ以降何か「穴」のような問題にぶつかった時、このシスターの話を思い出すようにしています。
今回のコロナ禍によってたくさん損失はありましたが、必ずこの「穴」によってしか見えないもの、見つけられないものがあると思います。
「お互いを思いやり、助け合う心」
そんな心の輪が今回の「穴」によって社会全体、世界全体に広がっていくきっかけになることを願っています。
「叱ること」について
緊急事態宣言が解除されましたが、もともとステイホーム好きのぴよこは相変わらずお家カフェを満喫して過ごしております♪
しかし、急な解除だったので解除要請になった施設やお店の責任者は大変な状況ではないかと思います。
そして世のお父さんお母さんも急な展開にてんやわんやではないかと想像しております。
これからは学校も少しずつ再開し、生活が変わっていくと思いますが、この変化をより良く迎え、皆がよりHappyに過ごせる社会が広がっていくことを願っています。
さて、今日は「叱ること」について書いていきたいと思います。
「叱ること」は大人→子どもだけではなく、上司→部下、先輩→後輩などどの世代にもあることですよね。
相手が何か間違えたり良くないことをした時に「注意する」「教える」ことが「叱る」ことですが、「怒鳴る」ことが「叱る」ことだと思っている大人も少なくないと感じます。
「怒鳴る」ことは威圧したり権力を誇示することに過ぎず、「叱る」ことではないのです。
子育てにおいても「子育て=しつけ=叱ること」と認識している日本人が多いと感じます。
大人でも子どもでも、続けて一方的に怒鳴られたり叱られたりしていたらスルースキルが身につき、慣れてしまいます。
相手にスルースキルが身についてしまうと子ども、部下、後輩によく育ってほしいと思っても必要な話が届かなくなってしまうので、本末転倒です。
かくいう私も前回の記事に書いたように以前は毎日叱ったり、大きな声で「ダメダメー!」を連発していました。
この「ダメ!」は日常茶飯事、各家庭で使われていることが多い言葉ですが、実は強い否定語です。
なので、人に危害を加えたり命の危険がある時などの非常事態、強く教えなければいけない場面のためにとっておいてほしい言葉なのです。
狼少年の話のように「狼が出た!」という非常事態の言葉を日常茶飯事使いすぎない、ということです。
では「叱る」時にどうするのが好ましいのか?
それは「自分主体」で相手に伝えることだと私は考えています。
「〇〇してはいけません」は「規範のため」に叱ること。
「〇〇したら△△ちゃんが泣いてるでしょ」は「△△ちゃん主体」で叱ること。
「あなたが〇〇したら私は悲しい」は「自分主体」で叱ること。
「叱る」ことはたいていの場合、相手によくなってほしいと思ってすることだと思います。
なのでその思いを入れて相手に伝える時、相手に伝わるし、双方ともに余計なエネルギーを使わずに済むと感じています。
目の前の「失敗」や「間違った行動」といった結果を修正しようとばかり考えず、「相手によくなってほしい」という根本の気持ちを素直に伝えることで親子関係でも会社などの上下関係においても、平和がなされていくことを願っています(*^-^*)
もがきの末に見えた答え
保育士のぴよこです🐣
ぴよこは働き始めてから保育士の資格を取得しました。
保育の仕事をしながら資格を取得したので、資格のないパートで働いていた時期が2年以上ありました。
パートの時は担任を持たず、いろいろなクラスのお手伝いをする「雑用」的な位置で働いていました。
思い返すと、このパート期間は様々なことを学ばせてもらいました。
この時私が一番学ぼうとしていたことは「叱り方」でした。
当時働いていた園の先生方は、子どもが問題行動を起こした時にきつく叱る先生が多かったので、叱り方がわからなかった私は「ああやって叱るのが正しいのだな」といつも見て学んでいました。
そして資格取得後、パートで働いていた保育園は家から遠かったので、通いやすい保育園に転職をするようになりました。
晴れて正社員となったわけですが、この時の私は子どもに何か問題行動があった時、今まで学んできた「叱り方」をひたすら思い出して叱っていました。
それによって問題行動はおさまることもありましたが、一時的に威圧して抑えつけていただけだったので、たとえ問題行動がおさまったとしても毎日気持ちはスッキリせず、もやもやしたまま同じやり方を繰り返していました。
悶々としながら日々の保育をなんとかこなしていた日々は、迷路に迷い込んだような感覚で毎日過ごしていました。
この答えを探し求めながら毎日過ごしていましたが、日々の経験や様々な人や本、環境を通して少しずつ悩んでいたことの答えが見えてくるようになりました。
その答えは、自分は「人の真似」をしていただけで、自分自身の気持ちや相手の気持ちといった「本質」から目を逸らしていたから何をしてもスッキリできず悶々としていたことに気づいたことでした。
私は保育の中で、子どもとの接し方のことでたくさん悩み、もがき、求めました。
悩みの答えがなかなか見つからず、落胆し先の見えない日々もたくさん経験しました。
「失敗は成功の元」という言葉もありますが、「失敗」の過程にいる時は「成功」というゴールが見えず、暗やみを手探りで進んでいるような状態だと感じます。
その先のゴールを見つけた時に、暗やみから日が昇るように今までの道を振り返って見ることができるのだ、と感じました。
私自身、悩み、もがく過程があったからこそ、答えを見つけた時の喜びが大きかったし、見つけたものの価値を感じられるのだと思いました。
まだまだ成長過程のぴよこですが、一つ一つ行ないながら続けて前進していきたいと思います☆
「あたりまえ」について
「あたりまえ」を見直したら保育はもっとよくなる
我らがSail of the Lord Churchがある足立区の公立保育園が「あたりまえ」を見直したことで質がよくなった、という実例が紹介されている本です。
足立区の保育が注目されていて嬉しいので紹介してみました😊
この本に書かれていることはさておき、日常の中で無意識のうちに「あたりまえ」になっていることって多いなぁ、と感じます。
普段それによって不便を感じなければ見直す機会もないですが、今のコロナ禍によって地域、日本、世界的に今まで「あたりまえ」だったことを見直し、立て直す時になるといいな、と思います。
ところで、教育においての「あたりまえ」とも言える「戒めること」について、数年前にネットで読んだ記事で印象的なものがありました。
ある息子が父親から車を借りて乗りましたが、忘れ物をして家に戻ったそうです。
家は坂の中腹にあり、下には川が流れている場所だったそうです。
息子は家の前に車を停めて家に入りましたが、その時にサイドブレーキをかけ忘れてしまったそうです。
息子は5分程度で車に戻ったそうですが、車が川に転落していたそうです。
これを知った父親は、息子に対して何も言わなかったそうです。
それは「息子自身の良心が反省していること」を認め、あえて何も言わないことで本人が考えるようにさせた、という記事でした。
この父親のような行動はなかなかできないことだと思いますが、「相手を信じる」絶対的な信頼があってこそ、口先だけではない本当の教訓、教育がなされるのだと感じました。
私も仕事や生活の中で失敗すること、間違えることはたくさんありますが、神様はいつもさりげなく自分自身が気づくようにしてくださいます。
このことを通して、自分自身も人に対して口で間違いを指摘するのではなく、一緒にやりながら相手の成長を助けてあげる存在になれるように、自分自身を見直していきたいと思いました☆彡